場 – 柳原鉄太郎 –


先ほどまで竹刀の音が響いていた道場で、剣士たちが正座し黙想、そして静かに道場に一礼する。ユニホームを泥だらけにした野球少年らが一列になり、大声とともにグラウンドに向かってお辞儀をして練習を終える。

多くのスポーツ選手が示す、場に対するゆかしいふるまいは、観ている者にも一服の清涼剤である。その清々しさがどこから来るのかといえば、自分たちが鍛えられるところ、成果を出すところという場の意義をよく理解し、感謝と敬意を忘れないからではあるまいか。

これは日本人の礼のしつけの一端に依るものであり、海外のスタジアムで、日本人観光客が観戦後に座席を掃除して賞賛されるのも、同じ意識の発露なのであろう。

人間同士の礼にとどまらず、こうしたいわば場への礼の精神が浸透すれば、社会はより豊かになるに違いない。

多くの外国人が来日し、海外との交流はますます深まろうとしている。グローバルな時代に、日本人の一人として場に対する美意識を世界にも広めたい。そして自分にとっての場をどのように大切にするか、時に思いを巡らせたい。

一つひとつ – 柳原鉄太郎 –


仕事でもプライベートでも、目の前に壁が立ちはだかったような困難が時に起こる。ことに原因が複雑で、何から手をつけてよいかも分からない場合は深刻である。

途方に暮れて、援助を求めたら、タイミングよくすぐさま誰かが助けに来てくれる、というのはフィクションの世界であろう。いくら一大事だと叫んでも、仔細を知っている人でない限り、協力者には成りえない。

結局、何を優先して困難を打開するかを判断できるのは、現実に直面している自分しかいないのである。だとすれば、まずは己自信で対処するのだと心を定め、粛々と事に当たるのが常道ではなかろうか。

一気に解決するべく無理をすると、また次の無理が生じてくる。どんなに入り組んだ難事難題であろうが、因果関係を丁寧に解きほぐしていくところに手だても見えてこよう。

一つひとつ。自分に成し得ることを着実に遂行することである。誠実に対応する姿勢に徹すれば、事態は必ず動いて展望も開けてくるに違いない。

鏡 – 柳原鉄太郎 –


鏡とはありがたい。いかなる時でも、まぎれもない自分を映してくれる。暮らしの中で鏡がなければどれほど不便であろう。自分の身ごなしが望ましい姿かどうかを映し見るために、鏡は不可欠な物である。

自分を映すという点では、お互いの心も鏡に似ているのではなかろうか。人と人が交流する際、観応しあうのが人間というもの。己の傲慢な振る舞いは相手の傲慢を呼び、謙虚な振る舞いは相手の謙譲を惹起する。

時に一方的な思い込みはあるものの、相手が自分に抱いている感情は、自分がその相手に抱いている感情が何がしか投影されているとは言えまいか。だからこそ礼節を尽くせば、礼節を尽くされる。まさに鏡の如くなのである。

人として生きることは、いかに他人とともに生きるかでもある。他人に誠実でありたいと望むなら、何が正しいのかを問いつつ、常に自分を省みる努力が求められよう。その試みのために、相対する人の振る舞いをわが姿見として、みずからを律したい。

無我夢中 – 柳原鉄太郎 –


勉強であれ、仕事であれ、スポーツであれ、無我夢中で取り組んでいると時間を忘れることがある。やるべきことをただやるだけ。ふとわれに返ったときは気分爽快。伴う成果に思わず自分をほめたくなる。

自分の好きなこと、得意なことであればすぐに夢中になれる。まただからこそ好きなことはより好きに、楽しいことはいっそう楽しくなるのであろう。

ただ、世の中はいつも自分が好きで、得意なことを選べるわけではない。むしろ、時には嫌いで、苦手なことも強いられる。その至極当然の成り行きを不当ととらえたり、意気消沈したりしていてはいただけない。

勉強が苦手、仕事は退屈、体を動かすことは大嫌い。そんな自分でもまずは雑念を払い、眼の前のなすべき物事に集中してみることである。そして無我夢中に取り組めたのなら、それは新たな楽しみの発見に違いない。

大切なのは”何をするか”ではなく”どのような心持ちでするか”ということ。無我夢中の境地を追求することは、充実の人生を味わうための一つの手段なのである。

ドラマ – 柳原鉄太郎 –


誰でも仕事や人生において突如、窮地に陥ることがある。”なぜ悪条件ばかり重なるのか””こんなときに事故に遭うなんて”といった愚痴がついこぼれる。人生100年、平穏のうちに過ぎればそれにこしたことはないけれど、そうはうまく運ばない。時に悲劇に見舞われるのも人生である。

劇と言えば日常、私たちはテレビや書物を通してたくさんのドラマを楽しんでいる。おもしろいドラマの条件は、主人公の目の前に高い壁が立ちはだかっていること。そして主人公が絶体絶命のピンチから脱出し、大逆転するところに気分爽快、ドラマの醍醐味を味わっているものである。

とすれば、現実に危機に直面したとき、これもまたドラマの舞台、自分をその主人公に見立ててみたらどうだろう。不屈の闘志で事態を打開できればまさにヒーロー、観客ではなく主人公としても極上の喜びを味わえるのではなかろうか。

嘆くのはほどほどにして前向きに。逆境こそ最高のドラマの始まりだととらえ、まずは主人公らしく、自分の足で立ち上がることから始めよう。

新しい夢 – 柳原鉄太郎 –


今の小学生に、将来の夢としてなりたい職業を尋ねると、男の子なら学者や博士、女の子なら保育士、医師、パティシエールといった答えが返ってくるという。時代の違いはあるけれど、子どもたちの夢はいたって明快、語らう姿を想像するだけでも微笑ましい。

ところが夢のとおりかどうかはさておき、大人になって職に就き、幾春秋が過ぎるうちに、いつしか新しい夢を持たなくなってしまう。

いやいや仕事には常に目標があり、目標を達成すればまた次の目標が与えられ、倦むことはない。そう言い切れるならばそれはそれで結構であろう。

とはいえ、目標は一つの目安にすぎない。まして目標達成のための汲々とし、真の仕事の喜びや自分を高める楽しさを見失っていてはつまらない。

仕事に限らず、いつも夢を持ち続けよう。日常の些事に追われて疲れを覚えても、夢を思い起こせば元気が戻ってくる。

人生は夢あればこそ輝くことを忘れないでいたい。

感謝 – 柳原鉄太郎 –


たとえ天涯孤独の人でも、一人で生きているわけではない。衣食住は言うに及ばず、何らかのかたちで他人と関わりつつ、社会の恩恵を受けて暮らしている。

そのことのありがたさを心に刻み、少しでも恩に報いるべく、自分のできることをしていく。社会の向上発展、周囲の人々の幸せに資するよう努めていく。そこに生きる意義があり、生きる価値があるといえよう。

社会の発展のため、他人の幸せのためなどというと、自分にそんな力はない、日々の生活に精一杯で他を顧みる余裕などないという人もあるかもしれない。

しかし社会とつながっているということは、お互いにその中の意味ある一員だということ。決して無用な存在ではない。また一人ひとりがそうした気持ちをもたなければ、この世は索漠としたものになってしまう。そしてそれは他人のためだけではない。誰かの役に立っていると思えば、それだけで人は生きていけるのである。

仕事や人生に倦んだら、周りの恩恵に目を向けてみたい。感謝の心を常に忘れずにいたい。

岩波新書新赤版1000点に際して


ひとつの時代が終わったといわれて久しい。だが、その先にいかなる時代を展望するのか、私たちはその輪郭すら描きえていない。20世紀から持ち越した課題の多くは、未だ解決の緒を見つけることのできないままであり、21世紀が新たに招きよせた問題も少なくない。グローバル資本主義の浸透、増悪の連鎖、暴力の応酬、世界は混沌として深い不安の只中にある。

現代社会においては変化が状態となり、速さと新しさに絶対的な価値が与えられた。消費社会の深化と情報技術の革命は、種々の境界を無くし、人々の生活やコミュニケーションの様式を根底から変容させてきた。ライフスタイルは多様化し、一面では個人の生き方をそれぞれが選びとる時代が始まっている。同時に、新たな格差が生まれ、様々な次元での亀烈や分断が深まっている。社会や歴史に対する意識が揺らぎ、普遍的な理念に対する根本的な懐疑や、現実を変えることへの無力感がひそかに根を張りつつある。そして、生きることに誰もが困難を覚える時代が到来している。

しかし、日常生活のそれぞれの場で、自由と民主主義を獲得し実践することを通じて、私たち自身がそうした閉鎖を乗り越え、希望の時代の幕開けを告げてゆくことは不可欠ではあるまい。そのために、いま求められていること――それは、個と個の間で開かれた対話を積み重ねながら、人間らしく生きることの条件について一人ひとりが粘り強く思考することではないか。その営みの糧となるものが、教養に外ならないと私たちは考える。歴史とは何か、よく生きるとはいかなることか、世界そして人間はどこへ向かうべきなのか――こうした根本的な問いとの格闘が、文化と知の厚みを作り出し、個人と社会を支える基盤としての教養となった。まさにそのような教養への道案内こそ、岩波新書が創刊以来、追及してきたことである。

岩波新書は、日中戦争下の1938年11月に赤版として創刊された。創刊の辞は、道義の精神に則らない日本の行動を憂慮し、批判的精神と良心的行動の欠如を戒めつつ、現代人の現代的教養を刊行の目的とする、と謳っている。以後、青版、黄版、新赤版と装いを改めながら、合計2500点余りを世に問うてきた。そして、いままた新赤版が1000点を迎えたのを機に、人間の理性と良心への信頼を再確認し、それに裏打ちされた文化を培っていく決意を込めて、新しい装丁のもとに再出発したいと思う。一冊一冊から吹き出す新風が一人でも多くの読者の許に届くこと、そして希望ある時代への想像力を豊かにかき立てることを切に願う。(2017年4月13日)

生殖医療の衝撃 [著]石原理


■精子バンクなど先端技術を紹介

本書によれば、最近日本で生まれる子供の約24人に1人は、「体外受精」など生殖医療で誕生する。また世界では、そうした子供たちの数は累計で600万人以上に達した。
一般に生殖医療とは、この体外受精のような不妊治療を意味するが、本書の内容はそれよりも広範囲に及ぶと共に、ビジネス的な側面にも力点を置いている。今や子供を作るのに必要な「卵子」と「精子」は商業製品として販売され、世界各地に国際宅配便でデリバリーされている。
たとえばデンマークの精子バンク「クリオス」のホームページには、多数の精子提供者の詳細なプロフィルが掲載されている。顧客はまず希望する瞳や髪の色、身長、血液型などを選び、あとはサーチボタンを押すだけ。そこから普通の商品を選ぶのと同様、ウェブサイトを見ながら様々な情報を比較検討して注文を出し、クレジットカードで決済する。数日後には自宅まで凍結精子が配送されてくる。
他に、母から娘への「子宮移植」やiPS細胞から作られる精子や卵子のような「人工配偶子」、さらに最新鋭のDNA操作技術「ゲノム編集」など、今後の生殖医療に革命をもたらす先端技術も紹介する包括的な内容だ。

「決め方」の経済学―「みんなの意見のまとめ方」を科学する [著]坂井豊貴


■多数意見の反映とは限らぬ多数決

 2000年の米大統領選。民主党ゴア、共和党ブッシュの両候補に加え、ゴアと支持層がかぶる第3の候補ネーダーの参戦により、票の割れが起こり、ブッシュが逆転勝利した。もし、決選投票を行ったらゴアが勝ち、その後のイラク侵攻も、イスラム国の誕生もなかったかもしれない。
 決め方次第で歴史も変わる。多数決の結果が多数意見を反映するとは限らない。前著『多数決を疑う』と同様、経済学の視点で多数決を考える著者の強い問題意識だ。
 二択の多数決で「正しい判断」ができるためには、投票者に三つの条件が必要だという。(1)共通の目標がある(2)「表裏が半々の確率で出るコイントス」よりはうまく判断できる(3)判断の独立性がある。
 国会議員の党議拘束は(3)に反する。国会で多数決で決めてよいことに制限をかけるのが憲法で、立憲主義は多数決を使いこなす知恵との見方は決め方の研究者ならではだ。
 昼ご飯の店の選択など、「多数決はどうでもよいことを決めるのには実に適している」の指摘も目からウロコだ。三択では「1位に3点、2位に2点、3位に1点」と配すると票が割れず、ゴアも当選できた。決め方を決める大切さを実感し、その方法を学ぶ。