無我夢中 – 柳原鉄太郎 –


勉強であれ、仕事であれ、スポーツであれ、無我夢中で取り組んでいると時間を忘れることがある。やるべきことをただやるだけ。ふとわれに返ったときは気分爽快。伴う成果に思わず自分をほめたくなる。

自分の好きなこと、得意なことであればすぐに夢中になれる。まただからこそ好きなことはより好きに、楽しいことはいっそう楽しくなるのであろう。

ただ、世の中はいつも自分が好きで、得意なことを選べるわけではない。むしろ、時には嫌いで、苦手なことも強いられる。その至極当然の成り行きを不当ととらえたり、意気消沈したりしていてはいただけない。

勉強が苦手、仕事は退屈、体を動かすことは大嫌い。そんな自分でもまずは雑念を払い、眼の前のなすべき物事に集中してみることである。そして無我夢中に取り組めたのなら、それは新たな楽しみの発見に違いない。

大切なのは”何をするか”ではなく”どのような心持ちでするか”ということ。無我夢中の境地を追求することは、充実の人生を味わうための一つの手段なのである。

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ドラマ – 柳原鉄太郎 –


誰でも仕事や人生において突如、窮地に陥ることがある。”なぜ悪条件ばかり重なるのか””こんなときに事故に遭うなんて”といった愚痴がついこぼれる。人生100年、平穏のうちに過ぎればそれにこしたことはないけれど、そうはうまく運ばない。時に悲劇に見舞われるのも人生である。

劇と言えば日常、私たちはテレビや書物を通してたくさんのドラマを楽しんでいる。おもしろいドラマの条件は、主人公の目の前に高い壁が立ちはだかっていること。そして主人公が絶体絶命のピンチから脱出し、大逆転するところに気分爽快、ドラマの醍醐味を味わっているものである。

とすれば、現実に危機に直面したとき、これもまたドラマの舞台、自分をその主人公に見立ててみたらどうだろう。不屈の闘志で事態を打開できればまさにヒーロー、観客ではなく主人公としても極上の喜びを味わえるのではなかろうか。

嘆くのはほどほどにして前向きに。逆境こそ最高のドラマの始まりだととらえ、まずは主人公らしく、自分の足で立ち上がることから始めよう。

新しい夢 – 柳原鉄太郎 –


今の小学生に、将来の夢としてなりたい職業を尋ねると、男の子なら学者や博士、女の子なら保育士、医師、パティシエールといった答えが返ってくるという。時代の違いはあるけれど、子どもたちの夢はいたって明快、語らう姿を想像するだけでも微笑ましい。

ところが夢のとおりかどうかはさておき、大人になって職に就き、幾春秋が過ぎるうちに、いつしか新しい夢を持たなくなってしまう。

いやいや仕事には常に目標があり、目標を達成すればまた次の目標が与えられ、倦むことはない。そう言い切れるならばそれはそれで結構であろう。

とはいえ、目標は一つの目安にすぎない。まして目標達成のための汲々とし、真の仕事の喜びや自分を高める楽しさを見失っていてはつまらない。

仕事に限らず、いつも夢を持ち続けよう。日常の些事に追われて疲れを覚えても、夢を思い起こせば元気が戻ってくる。

人生は夢あればこそ輝くことを忘れないでいたい。

感謝 – 柳原鉄太郎 –


たとえ天涯孤独の人でも、一人で生きているわけではない。衣食住は言うに及ばず、何らかのかたちで他人と関わりつつ、社会の恩恵を受けて暮らしている。

そのことのありがたさを心に刻み、少しでも恩に報いるべく、自分のできることをしていく。社会の向上発展、周囲の人々の幸せに資するよう努めていく。そこに生きる意義があり、生きる価値があるといえよう。

社会の発展のため、他人の幸せのためなどというと、自分にそんな力はない、日々の生活に精一杯で他を顧みる余裕などないという人もあるかもしれない。

しかし社会とつながっているということは、お互いにその中の意味ある一員だということ。決して無用な存在ではない。また一人ひとりがそうした気持ちをもたなければ、この世は索漠としたものになってしまう。そしてそれは他人のためだけではない。誰かの役に立っていると思えば、それだけで人は生きていけるのである。

仕事や人生に倦んだら、周りの恩恵に目を向けてみたい。感謝の心を常に忘れずにいたい。

岩波新書新赤版1000点に際して


ひとつの時代が終わったといわれて久しい。だが、その先にいかなる時代を展望するのか、私たちはその輪郭すら描きえていない。20世紀から持ち越した課題の多くは、未だ解決の緒を見つけることのできないままであり、21世紀が新たに招きよせた問題も少なくない。グローバル資本主義の浸透、増悪の連鎖、暴力の応酬、世界は混沌として深い不安の只中にある。

現代社会においては変化が状態となり、速さと新しさに絶対的な価値が与えられた。消費社会の深化と情報技術の革命は、種々の境界を無くし、人々の生活やコミュニケーションの様式を根底から変容させてきた。ライフスタイルは多様化し、一面では個人の生き方をそれぞれが選びとる時代が始まっている。同時に、新たな格差が生まれ、様々な次元での亀烈や分断が深まっている。社会や歴史に対する意識が揺らぎ、普遍的な理念に対する根本的な懐疑や、現実を変えることへの無力感がひそかに根を張りつつある。そして、生きることに誰もが困難を覚える時代が到来している。

しかし、日常生活のそれぞれの場で、自由と民主主義を獲得し実践することを通じて、私たち自身がそうした閉鎖を乗り越え、希望の時代の幕開けを告げてゆくことは不可欠ではあるまい。そのために、いま求められていること――それは、個と個の間で開かれた対話を積み重ねながら、人間らしく生きることの条件について一人ひとりが粘り強く思考することではないか。その営みの糧となるものが、教養に外ならないと私たちは考える。歴史とは何か、よく生きるとはいかなることか、世界そして人間はどこへ向かうべきなのか――こうした根本的な問いとの格闘が、文化と知の厚みを作り出し、個人と社会を支える基盤としての教養となった。まさにそのような教養への道案内こそ、岩波新書が創刊以来、追及してきたことである。

岩波新書は、日中戦争下の1938年11月に赤版として創刊された。創刊の辞は、道義の精神に則らない日本の行動を憂慮し、批判的精神と良心的行動の欠如を戒めつつ、現代人の現代的教養を刊行の目的とする、と謳っている。以後、青版、黄版、新赤版と装いを改めながら、合計2500点余りを世に問うてきた。そして、いままた新赤版が1000点を迎えたのを機に、人間の理性と良心への信頼を再確認し、それに裏打ちされた文化を培っていく決意を込めて、新しい装丁のもとに再出発したいと思う。一冊一冊から吹き出す新風が一人でも多くの読者の許に届くこと、そして希望ある時代への想像力を豊かにかき立てることを切に願う。(2017年4月13日)

14歳のための宇宙授業―相対論と量子論のはなし [著]佐治晴夫


■数式を一編の詩と見なして読む

 音楽に携わって以来常々感じていたことだが、音楽と物理学はどこかでつながっているという気がする。音楽にも方程式のような考えがあり、過去の偉業(あるいは名曲)の蓄積の上に成り立つ発見があるなど、そこに共通点があると思うのだ。だからなのか、演奏も一流、学問も一流という学者は意外と多い。
 著者もその一人であり、ピアノを流麗にこなす。もし自分にも数学的素養があれば物理学者になれたのかもしれない。しかし数式を見ると気が遠くなる人間にはむずかしいだろう。いったいどこで数式が苦手になったのか。本書の表題にある「14歳」という年齢にはどんな意味が込められているのだろう。
 中学生の頃の自分に当てはめてみれば、確かにサイエンスフィクションに没頭していた。宇宙の謎や世界の不思議な出来事に対する好奇心も旺盛で、知識の吸収力も強かった。とはいえ空想科学から物理学への道は1本ではない。「神の数式」といわれる数学への理解力が必須なのだ。
 ところが著者は、数式を一編の詩と見なして読めばよいという。季節や月ごとの時候から始まる各章には宇宙や星の物語が綴(つづ)られ、複雑な交響曲の上に乗る旋律を心地よく辿(たど)るように、難解な物理学を背景にした相対論や量子論を解きほぐす。その手法はまさに「物知り博士」から14歳の少年少女に届く手紙のようだ。
 これなら物理学に近づける。本書からは好きな物理学者ガモフの面白おかしい試みとは別の、感性や物語性を重視した著者の「宇宙論のソナチネ」という考え方がくみ取れる。また本書には漢字にルビが振ってあるおかげで、14歳の少年の気持ちになって読めた。
 物理学に深く興味を持った読者には重要な方程式も網羅されている。著者が映画「コンタクト」の原作者で天文学者・SF作家のカール・セーガンにインスピレーションを与えたという伝聞にもうなずける。
    ◇
 さじ・はるお 35年生まれ。「ゆらぎ」研究で知られる理論物理学者。著書に『14歳のための時間論』ほか。

奇想、宇宙をゆく―最先端物理学12の物語 [著]チャウン


■硬直した日常を超えて、仮説の世界へ
 
 一般の人が「科学的だ」と感じることができるのは、ニュートン力学とせいぜい電磁気学までだ。事実、前世紀のはじめにはそれで宇宙の森羅万象のほとんどが説明できると信じられていた。ところが、その後出現した相対論と量子論は、私たちの日常感覚から程遠い、時間や空間の歪(ゆが)み、素粒子の奇妙な振る舞いを明らかにし、かえって謎を深めてしまった。
 本書は、謎が謎を呼ぶ最新の物理学の十二の仮説を、一般向けに平易に解説している。著者は、この分野の深い理解と、それをやさしく噛(か)みくだいて説明する才能に恵まれているが、それでも一見荒唐無稽(こうとうむけい)な話に戸惑う読者が多いだろう。
 この宇宙は、別の宇宙に住む知的生命体が、日曜大工さながらに実験室で生み出したとする第九話は、科学的仮説に必要な蓋然性(がいぜんせい)が不足の感がある。多宇宙仮説は、正統的な多世界解釈(第二話)から、通常の物質と鏡像関係にある不気味なミラー宇宙(第七話)、そして余分な次元が様々に縮退した多様な宇宙(第八話)などが紹介されている。宇宙はミニ・ブラックホールに満たされていると説く第六話も含めて、まっとうな仮説だろう。
 私が思わず膝(ひざ)を打ったのは、「素粒子は微小な時間のループ(閉じた輪)だ」と説く第四話だ。相対論では、重力を時空間の歪みとして説明する。その歪みが極端になるとループしてしまうことも理論上あり得る。空間のループも考えにくいが、時間のループはもっとややこしい。過去も未来もごっちゃになって、因果律がおかしくなるからだ。そのため、アインシュタインはこの可能性を無視した。でも因果律を絶対視しなければ、きわめて筋のいい仮説であり、今後の発展が期待できる。
 相対論と量子論は水と油のように相性が悪く、その統一はあらゆる物理学者の夢だった。従来は量子論を拡張して相対論を導こうとして失敗していたが、この仮説は逆に相対論から量子論を導こうとしている点がユニークだ。
 本書は、硬直した現代人の脳ミソをぐちゃぐちゃに引っかき回すことは間違いない。
 評者・天外伺郎(作家)
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 長尾力訳、春秋社・329ページ・2415円/Marcus Chown 60年生まれ。英科学誌「ニューサイエンティスト」顧問。